私は人間関係が上手くいかず、苦しい思いをした経験がたくさんあります。
相手を責める気持ちや自分が理解されない悲しみを、なぜ過去の私は繰り返してしまったのでしょうか。
それは、別の視点で物事を見る必要性に気付いていなかったからだと思います。
子供時代に大人から受ける影響
子供時代の人間関係の見本と言えば、両親や教師などの身近な大人たちですが、実際は単に年齢を重ねているだけで『正しい人』ではありません。
客観的な正しさを知っていたとしても、大抵はその人の感情的な癖や価値観の上で、物事を判断しています。
そういった大人たちが子を持ち、社会を作るのですから、どうなるかは想像がつくでしょう。もちろん、私も例外ではありません。
大人たちが精神的な学びを得ず、その場しのぎで人と関わるのを目の当たりにしながら子供たちの価値観が出来上がるのだとしたら、人間関係に悩みを抱えてしまうのは当然なのかもしれません。
『被害者の自分』を作り出すもの
私たちは、自分の価値観でしか、相手の立場や思いを想像することができません。だからこそ、自分が傷付けられたと認識してしまうのでしょう。
そうやってお互いが『被害者だ(傷付けられた)』と主張する限り、両者が分かり合うことは不可能です。
『自分の正しさ』を持ち込んでしまえば、人間関係は上手くいきません。
私は過去を振り返ったとき、傷付いた経験のいくつかは、自分の正しさを相手に押し付けたことによるものだと理解しました。
お互いの背景にあるもの
『わたし』と『あなた』は、性格も違えば、感情の癖も育った環境も違います。
たとえ同じことを体験しても、とらえ方はそれぞれです。
私たちは、お互いにいろんな背景を背負って『今』を生きています。
ですが、いくら学校で道徳の授業があったとしても、客観的な正しさを基準に判断することしか学んでおらず、人それぞれの性格や感情の癖、育った環境(あるいは人)などが人間関係に与える影響については、知らないことの方が多いのではないでしょうか。
だからこそ私は、相手から受け取った違和感を、自分に対する拒否感や攻撃だと認識していました。
相手がなぜそのような言動を取るのかを、表面的なことでしか判断できないことが問題なのかもしれません。
とはいえ、お互いを理解できるほどのコミュニケーションを成立させるには、時間がかかるのも事実です。
執着の存在
話し合いで折り合いをつけることは大切ですが、残念ながらそうできないこともあります。
その場合は価値観の違いを受け入れ、あえて距離を置くのもひとつの方法です。
自分、もしくは相手に合わせることに執着していては、お互いが心地良くないからです。
それによって、今いる場所を離れる必要があるかもしれませんが、自分の中に譲れないものがあるならば、そうした選択も必要なのだと思います。
私は、関係性に執着して相手の価値観を優先したことも、相手に合わせてもらったこともありますが、いずれの場合も、関係性が続くことはありませんでした。
どちらかが無理をした状態では、結果は見えています。それならば、相手に執着することも、自分の元から去りゆく人を引き留めたり批判する必要もありません。
自分と似たような価値観を持つ人は、他にもいるのですから。
自立と自由のある関係性
お互いに自立した精神があれば、相手との関係性に、執着することはありません。
必要な時に必要な人と関われることは、何よりも自由です。
『自分は自分』『相手は相手』と割り切り、お互いの自立と自由を受け入れることも、大切なのかもしれません。
そして、関係性の持続がすべてではないことを理解していれば、少なくとも『今』に集中して、相手と関われるのだと感じています。
コメント