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【エッセイ】 誰かの価値観や思い込みで生きていないか?

私たちは、日々、大小様々な選択を繰り返しながら生きている。

その選択の基準となる価値観は、これまでの経験や、周囲の人から得た情報によって形作られたものであり、自分自身がそれらに反応した結果なのだろう。

自らが選択していながら、心苦しさを感じる時、私たちはどうすればいいのだろうか。

自分の選択の根底にあるもの

「自分で選んだはずなのに、なぜこんなに苦しいのだろう?」

「なぜ同じような悩みを繰り返してしまうのだろう?」

そう感じている場合、自分がその選択に至った理由を、一度じっくりと振り返る必要があるのかもしれない。

なぜなら、誰かに対する反発心から、あえて違う道を選んでいたり、一度の失敗から、似たようなものを避る癖がついているのかもしれない。周囲の様子を見て、同じようにすべきだと考えているかもしれないからだ。

一見、最善の選択のように思えても、実は無意識のうちに、何らかの思い込みが自分を縛り付け、判断をゆがめているかもしれない。

だからこそ、自分の本音をハッキリさせておく方がいいと、今なら思う。

「母のようにはならない」という縛り

たとえば私は、母とは全く違う生き方をしようと決めていた。専業主婦だった母は、私の心強い味方ではあったが、社会的な立場としては、その時代ゆえの不自由さを子供ながらに感じていたからだ。

母は、どちらかと言えば内向的な性格だが、私はその逆だった。しかも、母の自己否定的な言動を見ながら育ったこともあり、母のようにならなければ、自分は大丈夫だと考えるようになった。

だからこそ母とは違う道を選択し、積極的に仕事と家庭の両立をはかろうと思ったのである。

しかし実際はと言うと、うまく両立させるには、心のゆとりが足りなかった。「どちらも上手くこなせるかっこいい女性」という理想像は、もろくも崩れ去ったのだ。

家計のため、教育費のため、老後のため…。

どれも世間の価値観で捉えていた私は、本当に自分にとって何が大切か、優先すべきなのかに気付いていながら、ずっと隠して生きていたのだ。

それに気付いたのは、心身が弱り、仕事を辞め、自分の心と向き合う時間を持つようにしたことがきっかけだった。

私は母の生き方を勝手に判断し、不自由で社会的な価値がないと決めつけていただけだった。しかし、当の本人は、そんなことを全く感じていなかったのだ。

「私」というフィルターを通すと、ここまで「母」の解釈が変わってしまうのだと、改めて気付かされたのだった。

追い詰められていた心が解放され、新しい選択肢が見えてきたことで、私は自由をひとつ手に入れることができた。きっと、こうした経験からの学びが、私には必要だったのだ。

頑なにならなくてもいいし、いつでも立ち止まってもいい。価値観の転換は、自分の心と静かに向き合うことで起こるのだから。

選択の自由と責任

社会的な価値観は、ドラマや映画、CM、ニュースなどを通じて、私たちの選択に影響を与えている。

多数派の価値観が基準にされやすい側面はあるが、自身の本音と価値観を、社会でどのように対応させるかを考える必要があるだろう。

どうしたいのかは私たちの自身の心が知っていて、私たちには選択の自由がある。

しかし、何をどう選択しても、完璧で間違いのない答えなど存在しないのかもしれない。

選択した限りは、自分の判断に責任を持つことは大切だろう。違うと感じたら、また違う選択を下せばいい。

ジャーナリングのネタに:あなたの本音を探り出す

これらの質問を、自分に投げかけてみましょう。あなたの選択の背景には、何がありますか?本音では、どうしたいのでしょうか。

  • 過去にどのような選択で悩んだことがある?
  • その選択の背景には、どのような価値観があったと思う?
  • もし、もう一度その選択をする機会があれば、どのようにしたい?

 

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