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【エッセイ】スピリチュアルな視点で深掘り「真理」の多面性と自己成長

スピリチュアルな世界に興味を持つと、よく耳にする言葉に真理」がある。

例えば、引き寄せの法則では「宇宙の法則」やら「宇宙の真理」という言葉が出てくるけれど、現代のように情報があふれている時代では、多くの人が「自分なりの真理」を主張しているように感じる。

だからこそ、真剣にそれらと向き合おうとするほど、一体何が「正解」なのか分からず、迷ってしまう人も多いのかもしれない。

私自身、真理については探求していないが、「正解」を求めて彷徨ったことはある。

真理のとらえ方

真理という言葉は、宗教や悟りといった、絶対的な答えを求めるようなイメージを私たちに抱かせる。

そのため、悩みが深い人にとっては、真理こそが唯一ので光であり、その境地に早く到達しなければいけないと考えるのかもしれない。

「真理は絶対的なものだ」という考えは、揺るぎない軸となり、私たちに確信を与えてくれると思う。が、しかし、その真理に縛られ、他の考え方を認めなくなる可能性も孕んでいる。

もしかしたら、その真理を使って他人を支配している人がいるかもしれない。物事を疑いやすい私は、ついつい都市伝説的な捉え方をしてしまう(笑)。

一方、「真理は自分で探求するものだ」という考えは、個人の価値観を尊重し、多様な答えを受け入れる柔軟性があるように思う。とはいえ、答えが見つかる保証はなく、一生をかけて探求し続ける人もいるはずだ。

これは、「人の数だけ真理がある」という考えに通ずるものがあり、誰かの言う真理に振り回されることなく、自分自身の心の声に耳を傾けることを意味しているように思う。私の場合は、この感覚に近い。

たぶん、引き寄せの法則やその他のスピリチュアルな分野のように、目に見えない力やエネルギーに関する概念を考える上では、この考え方が当てはまるのではないだろうか。

だからこそ、真理の捉え方は人それぞれであり、どれが正しいというものではないのだ。

それをふまえて、私は自分にとっての真理を模索し、その考え方を軸に生きたいと思っている。

矛盾する真理

人生を創造するというテーマでブログを書いている私だが、「人生はコントロールできない」という矛盾する考えに、常に悩まされてきた。

しかし、どの側面に目を向けるかは、私たちが置かれた状況や歩んできた道によって変わる。

真理は、私たちを照らしてくれる光のような存在でありながら、同時に、その深淵な闇の中に私たちを誘い込むこともある。

それは、人生そのものが光と影が織りなす複雑なものであるように、真理もまた多面的な側面を持っていると言えるだろう。

真理という幻想から目を覚ます

真理を手に入れたつもりでも、そこに自分の経験や学びが伴っていなければ、その真理に振り回されてしまうこともある。

もし、真理を追い求めることに固執しているなら、幻想を見ていないか、冷静に考える必要があるのかもしれない。

ここで思い出されるのが、「鋼の錬金術師」だ。

この物語は、真理がもたらす光と影を、実に鮮やかに描き出している。主人公のエドワードとアルフォンスの兄弟は、「錬金術さえあれば、何でもできる」という真理に囚われて禁忌を犯し、その結果、大切なものを失う。

大切なものを取り戻す旅の中で、彼らの葛藤も垣間見ることができたが、最終的に、エドワードがその真理を手放すことで、失われたものを取り戻し、新たな道を歩み始める。その姿は、占星術でいうところの「冥王星による破壊と再生」を彷彿とさせる。

人生で経験する「破壊と再生」は、人それぞれに異なる意味を持ち、独自の真理を見出すきっかけだと思う。

私たちもまた、それぞれの経験から自分だけの真理を生み出し、その真理と向き合いながら生きているのではないだろうか。

私なりの真理

自分の在り方や幸福について探求する中で、私は自分なりの答えとして人生創造には自己理解が不可欠だ」という結論に至った。

とはいえ、この答えは永遠不変のものではなく、状況や経験によって変わっていくものだと考えている。自己成長が進むにつれて、また新たな答えを見つけ、同じような探求を繰り返すことになるかもしれない。

だからこそ、この終わりのない真理探求こそが、私たちを成長させてくれる機会なのだと思っている。

真理と価値観の違いとは?

「真理」と「価値観」は、似ているようで違う。

私にとっての真理は「信念」であり、自分の根っこにある「深く信じる思い」や「絶対的な掟」のようなものだ。「受け継いだもの」と言ってもいいだろう。

たとえば、私には「調和(ふたつのもののバランスをとること)こそが正しい」が根付いている。これはもう、ご先祖様ゆずりだと言ってもいいくらいに、幼い頃から感じてきた。基本的に、私の家族や親せきは、そういうタイプの集合体なのである。

しかも、自己犠牲でバランスをとることが多いため、無意識のストレスが爆発したときには、権利の主張が激しい。要するに、面倒なタイプなのだ(笑)。

人間関係、特にパートナーとの間でそれが起こりやすいため、それはそれは、物凄いエネルギーを消費することが多かった(今は自分を客観視しながら耐えている)。 真理に囚われているからこそ、真理に打ちのめされるというこの感覚を言語化できたのは、きっと、先の「鋼の錬金術師」のおかげだろう。

話を戻すと、「価値観」は、真理ベースにあるものではなかろうか。

確かに、時代の流れによって価値観が変化することは理解している。今流行りの「田舎暮らし(移住)」もそれだと思う。

ただ、私が思う価値観はこうだ。

「パートナーとのバランス重視(真理)だからこそ、パートナーに亭主関白はありえない。かかあ天下を意識した相手を探そう」

実際、我が家はそうして出来上がり、長年の調整期間を経て、調和がとれるようになった(笑)。

さっき、人生創造には自己理解が不可欠だ」というのも真理だと結論づけていると書いたが、真理は複数あってもおかしくないと私は捉えている。

人生を創造しながら自分なりの真理を探求する

「真理」という概念は人それぞれに異なる解釈があり、絶対的な答えはないのかもしれない。

終わりなき探求の旅は、私たちを成長させ、人生を豊かなものにしてくれるはずだ。

誰かの真理に振り回されるのではなく、自分自身の経験に基づいて、独自の真理を探求していくことも可能なのだと、私は思う。  

ジャーナリングのネタに:あなたにとっての真理とは?

これらの質問を自分に投げかけることで、あなたの自己理解が深まるかもしれません。特に、ジャーナリングのネタに使っても面白いと思います。

  • 自分にとっての「真理」とは?
  • 過去の経験の中で、自分の「真理」を大きく変えた出来事は?
  • 自分だけの「真理」をどのようにして見つけたい?
  • 自分の「真理」は、将来どのように変化していくと思う?

 

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