心理学やスピリチュアルな分野に興味がある人なら、『自己受容』や『自己肯定感』という言葉をよく知っていると思います。
メンタル的な悩みを開示しやすい今の社会では、これらは一般的にも使われやすくなった言葉です。
今回は、そんな『自己受容』について考えてみます。
自己受容と『周囲の価値観』
『受容』とは、受け入れる・取り入れると言う意味です。つまり、『自己受容』とは読んで字のごとく『自分自身を受け入れること』です。
前回は、私の思う『自分らしさの定義』についてお伝えしました。そして、それを受容することが、自分らしく生きるための土台作りには重要だと考えています。
とはいえ、私たちは、生まれた時から周囲の価値観を軸に生きているので、100%純粋な自分であるとは言えないかもしれませんね。
あれもこれもと、いろんな『価値観のサンプル』を取り込んでは、喜んだり悲しんでみたりと、まるで人生という舞台上で演じているよう。
むしろ、そうした反応そのものが、受け入れるべき自分の性質だと言えるのかもしれません。
そんな背景や状況もわからず、『生きづらい自分』を抱え込んでいるんですから、そりゃあ、しんどくもなります(笑)。もっと早く知っていればと思うのは、私だけではないでしょう。
他にも、SNSの投稿やYoutubeチャンネルで、ネガティブな煽り文句を使って、興味を引き付けるような情報って見かけませんか?
私は、ついつい興味本位で見てしまうタイプなんですが、ネガティブな内容って記憶に残りやすいんですよね(笑)。なので、はじめから見ないようにするのも大切だと感じています。
その好奇心は、質の良いものに向けた方がいいのは、言うまでもありません。
兎にも角にも、長所や短所、いろんな感情や思考の葛藤をまるごと受け入れ、自分と他者の価値観を区別する。
私たちには、この練習が必要なのかもしれません。
自己受容と『完璧主義』
完璧主義は、自己受容の妨げになることがあります。
「ちゃんとしなくちゃいけない」「こんなんじゃだめだ」とやっているうちに、終わりのない謎のループに陥ることってありませんか?
確かに、自分らしさの要素としての『細部までこだわる』という完璧さは、ものづくりや、物事の管理などに活かすことはできますが、自分自身をメンタル的に追い込み過ぎるのは考えものです。
というのも、私自身も、真面目過ぎるゆえの、完璧主義だからです(笑)。
小学生時代に学級委員を任されて、『責任感とは何たるか』を教え込まれたり、授業中に説教される生徒を目の当たりにしたり…。褒められることが、自分の存在価値に関わると思い込んでしまったんでしょうね。
他者から見た『キャラクター』で、責任の伴う役割を頼まれることが日常茶飯事。そんな人は、多いかもしれません。
では、完璧主義を克服するためにはどうすればいいのか。
それは、物事の優先順位をつけたり、「ここまでできれば良しとする」と決めておくこと。そして、完璧主義を、多少ゆるめたくらいがちょうどいいかもしれません。
だって、考えてみてください。完璧にできるなら、『完璧なコントロールも可能』だと思いませんか?
自己受容と『他者との比較』
SNSの発達で、他者との比較が容易になったことも、自己受容を難しくする原因かもしれません。
「なんでこの人みたいに上手くできないんだろう」「あの人はとても素敵だな」「私なんて…」と、脳内で自己否定を繰り返してしまうことってありますよね。
自分のコンプレックスを刺激されたり、理想と現実のギャップを思い知らされたり、嫉妬してしまったり…。
だからこそ、この状況下で、自己受容をどのように実践していくかは大事だと思うんですよね。
そもそも、相手と比較してしまうのは、自分に過度な期待をかけているのかもしれませんし、「今ここ」の自分が、満たされていないからかもしれません。
一番はSNSを見ないことですが、自分で受け取る情報を選ぶこともできるはず。これらと距離を置いて意識を逸らすことも大切です。
心を満たすには、自分にとっての『心地よさ』や『喜び』を理解しておくといいと思います。そこから生まれる創造性を楽しむうちに、自分を受け入れることができるかもしれません。
要は、自分に集中することです。
『受け入れる』とは『正しい』という解釈ではない
『自己受容』は、『自分を受け入れること』であって、『自分を正しいと判断すること』ではないはずですが、どうしてもそう解釈してしまうことってあると思います。
『ありのままの自分を受け入れるのよ』と、曖昧さを残したままの情報を受け取ると、どうしても自分なりに偏った解釈をしてしまうのが、人間なのかもしれません。
でも、これをハッキリさせないがために、他者とのネガティブな出来事を自分都合で判断して、『私の言動は正しかった(…と受け入れる)』になってしまうんですよね。
『相手と喧嘩してしまった自分』を『喧嘩しちゃった私なんてダメ!』ではなく『喧嘩しちゃった私…でもいい。』と受け入れるだけなんですよね、シンプルに。
そこに『喧嘩のジャッジ』は存在しないはずなんです。
『喧嘩をしちゃった私でもいい』が『喧嘩してもいっか(そんな時もあるよね)』になると、『喧嘩しちゃダメ!』という他者への禁止にはならない。
例えば、兄弟げんかする我が子に、単なる禁止だけを与えるからこそ、感情の吐き出しができなくなることもあるんじゃないでしょうか。
大切なのは、その感情を受け入れてあげること。それが『受容』なんだろうなと、私は思います。
あくまで、自己探求するうえでの『受容』についてなので、法に触れるようなことに関しては、もちろん別問題です。
自己肯定感のとらえかた
『自己肯定感』とは『自分の価値や能力を肯定する感覚』ですが、表現が曖昧でわかりにくいかもしれません。
『感覚』は人それぞれですし、思考で『肯定しよう』とらえるのとは違うからです。
思い込みの肯定感ではなく、『リアルな実感』。そう捉えると、『認める』『信じる』『周囲の評価に動じない』など、前向き(ポジティブ)な感覚を自分の中に感じられることが重要だとわかります。
上手くいかないことがあって『クヨクヨ』『モヤモヤ』『イライラ』してしまう自分を受け入れ、結果ではなく、そのプロセスを認めることが、自己肯定感につながるのかもしれませんね。
自己受容と自己肯定のための自己理解
『自己受容ができない・自己肯定感が低い』これらは他者との比較から生じます。
自己理解を深め、自己受容ができるようになれば、少しずつでも自己肯定感を上げることはできるでしょう。
周囲からの客観的な判断は別として、本来の自分の資質による感情や行動、反応そものを受け入れることから、自分らしい人生創造が始まります。
周囲の価値観を優先するか、自分の価値観を反映しながらカスタマイズするかは、それぞれの自由。ただし、その選択を前向きに受け入れられるかどうかを判断するのも、自分自身なんですよね。
自己受容ができるようになれば、これまでとは世界の見え方が変わるかもしれませんし、精神的な解放感を得られるかもしれません。
ジャーナリングのネタに:自己受容について考える
- あなたは、自分のことをどれくらい受け入れていますか?
- 「自分らしさ」とは、あなたにとってどのようなものですか?
- 自己肯定感を高めるために、どのようなことをしていますか?
- 他者との比較をやめるために、どのような工夫をしていますか?
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